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何者かになろうともがいている「意識高い系」をバカにしちゃダメだ
意識が高くて何が悪いんだろう?
何者かになろうともがいている人が「意識高い系(笑)」と揶揄される空気が本当にきらいです。
まだまだ未熟だけれどなんとか形にしようともがいているけれど、努力の方向がまちがっていたりして、周りからみて痛々しいひとのことを「意識高い系」と呼ぶみたい。
そしてそう思っているぼくも意識高い系のひとり。
自分で言うのもなんだけど、こう上にいこうとする人間の芽を摘むような発言をするのは絶対にダメだとおもうんですよ。
口だけじゃん、という指摘は合ってるんだけどそれは言わなくていい
ぼくが意識高い系についてかこうと思ったのはBLOGSに掲載されたこの記事を読んだから。
一部引用させていただきます。
岩瀬さんにインターンを申し込んで、名刺整理をやらされブチ切れた学生のメンタリティをみて、本当にさいきんよく観察される典型的な意識の高い(笑)学生そのものだと思いましたので、もう一度その特徴を書いておきます。
まず、こういう学生は、マーケティングか戦略がやりたいという。もちろんマーケティングの経験やスキルはゼロである。
しかし、岩瀬さんは、名刺整理という、もしかしたら、社長マーケティングの生データをインターンに渡したわけだが、インターンは、それをマーケティングの仕事と認識しなかった。つまり、彼は本質的には、マーケティングがやりたいのではなくて、
マーケティングをやっている自分の姿に憧れる
ということなのだ。あくまで、目線が自分目線なのである。要するに、
やりたいこと(内容)ではなく、なりたい自分の憧れ(状態)を描いて、それを自分のやりたいことや、目標だと、混同してしまう。
ふざけんなあああああああああああ!
この記事がFacebookいいね6000ごえってどういうことだよ。
記事の内容自体はもっともだとおもいました。
でもね、でもね、これって言わなくてもいいんだよ。
というか、言わないでください。
最初は「マーケティングをやっている自分の姿に憧れる」でいいじゃないですか。
意識高い系は自分が憧れしかもっていないことなんて知ったうえでなんとか「何者」かになろうともがいている。
こうやって言われることで憧れさえもてなくなったらどうするんだよ。
本人にこっそり指摘してあげればいいんだって。
最初は間違うのが当然なんだからバカにするのは違う
若い時は実績も何もないから基本的に自分に自信なんてない。
その状態からどうにかして見つけた憧れの姿になろうとしてるんだからそれは上手く行かなくて当然。
意識が高かろうと低かろうとそこに優劣はないけれど、頑張っていない人が頑張るその姿をみて「意識たけぇ〜(笑)」と言ってバカにするのはちがう。
頑張って成功した人間は絶対に意識高い人をバカにしない
成功した人はかならず意識が高いだけで、うまく行っていない時期を経験している。
だから若い人が必死でもがいてるのを絶対にバカにしない。むしろ頑張ってるなと思ったら引き上げようとします。
自分がそういう時期を経験してるからぼくも「ブログ頑張りたい!」って言ってる人はできるだけ引き上げたいと思います。
端から見れば中身の伴ってないとしても、口だけだとしても、そういう人は可能性にみちあふれてる。
Twitterで意識高い系にかんする素晴らしいつぶやきを沢山みつけられました。
ほんとこれ。間違いない。
若い人が少しくらい口だけ偉そうなことを言ったとしても、黙って聞いてあげればいいじゃない。その中から実際に成功するのは確かにほんの少しなんだけど、そういう人まで小馬鹿にして将来の芽を潰してしまったら、自分がどれだけ社会の害になりうるのか、わかってるのかね。
— yk_ga (@yk_ga)
そうだと思う。
意識高い系は承認欲求の塊、それを笑うことは自分の承認欲求も否定することになる
他人の承認欲求を笑う人は、自分もアウトプットすることができなくなる。笑われるのが怖くなるからだ。 アウトプットができない人間は、笑われない代わりに、評価されることもない。だから他人の承認欲求を笑う人は、自分の承認欲求も満たせない。永遠に、満たせなくなる。
— Rootport (@rootport) 2014, 1月 5
意識高いってことはつまり「何者かになって認められたい承認欲求が強い」ということ。
承認欲求なんてあって当然でそれをむきだしにしている意識高い系を笑うことで、結局は自分の承認欲求を否定してしまっている。
すると、承認欲求を出して笑われることが怖くなるから承認欲求を満たせなくなるという指摘もある。
人を笑うメリットなんてない。
ラスト・ナイツ監督の紀里谷和明さんの「意識高い系」に関する発言
ーー命かけてやっている学生が「意識高い(笑)」と言われる。なぜ日本はこうなってしまったのか?
紀里谷:楽だから。バカにしたって、生きていけるから。日本が何にも食べるものがない社会だったら、みんな必死になって食べ物を探すと思いますよ。食べ物を探しているやつに「お前意識高いな」と言いますか? 沈没しそうな船から脱出しようとしているやつに「お前意識高いな」と言いますか?
そういったことが言えるのは、平和の証だから良いことかもしれない。ただ、そうしているうちに船が沈んでいることをわかっていない。だから僕はそういった人たちと関わらないようにしていますし、そういった人たちはその船と一緒に沈めばいいと思う。
僕は「船の外に出たい」という人と一緒に何かしたいし、性別・年齢・国籍に関係なくそういう人とつながっていって、船を出てもっと素晴らしい何かをつくることもできるんじゃないですか。ただ言わせてもらうと、その「意識高いね」という感覚は、末期的症状だと思う。
意識高いという言葉が生まれること自体が末期症状とのこと。
この状態は健全じゃないと思う
意識高い系と意識低い系どっちがいいとかはない。
けどこんな状態は健全ではないはず。
今、たりていないのは肯定する力だと思う。
間違った方向に進みそうな人がいたら「いい行動力!もっとこうやれば上手く行くんじゃない?」とさりげなくアドバイスするのが一番かっこいいんじゃないかな。
この他人を否定することから始まる空気感がかわってほしい、と意識高い系の八木仁平は思っております。